とあるフットボーラーの肖像 - ゴールキーパーの不安


「ヨーゼフ・ブロッホはプロのチームに所属するサッカー選手でゴールキーパー。ウィーン遠征での試合でオフサイドをめぐって審判ともめ、退場になってしまう。何故か彼はチームと行動を共にせず、試合中にもかかわらず試合会場を離れてしまう。

映画を見、安ホテルに一人宿泊し、二人組に殴られたりしながら、街をぶらぶらとしている。映画館のチケット係であるグローリアと親しくなって飛行場の近くにある家に泊まりに行く。一夜明け、朝食を共にしたところで唐突にグローリアを絞め殺す。そして特に動揺する様子も見せず、指紋を拭き取り部屋を後にする。

ウィーンを引き上げバスに乗って国境の町へ向かう。小さな村に夜到着し、そこにあるホテルに宿泊。翌日昔なじみのヘルタがやっている居酒屋へ向かう。その村にとどまることにしたブロッホだが散髪したり映画の上映会に行ったり、居酒屋で隣合った男と喧嘩をしたり、と毎日ぶらぶらするだけで特に逃げようともしない。そんな中散歩をしていると、偶然その土地の人間が行方不明だと騒いでいた聾唖の子供の死体を見つける。

警察がグローリア殺人の犯人の新しいてがかりを発表した。アメリカの硬貨があったというのだ。それはブロッホがアメリカ遠征の際使い残した硬貨をグローリアの部屋に忘れて行ったのだった。しかしまったく動じない。

偶然サッカーの試合をやっているのを見つけ、見に行く。隣の席の中年男に話しかける。「ペナルティキックのとき、ゴールキーパーはどこに飛んでくるかわからない」という不安について語る。」


◇◇◇


これはオーストリア出身の作家、ペーター・ハントケの代表作「ペナルティキックを受けるゴールキーパーの不安」のあらすじだ。
フランツ・カフカやアルベール・カミュ的な不条理を徹底して描き、現代の文壇に大きな爪痕を残した彼が描き出した本作は、盟友とも呼べるヴィム・ヴェンダース監督の手で映画化され、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞している。

ハントケが本作執筆時に「その男」の存在を知っていたか定かではないが、この極めてややこしく、奇妙で捩じれた登場人物のモチーフとなる人物が実在した。
「その男」は不安など微塵もなかったかのように、堂々とフットボールキャリアを築いていった。

今回は、そんな話をしよう。


◇◇◇


元ネタ:THE DARK HISTORY OF CROATIAN GOALKEEPING LEGEND FRANJO GLASER


◇◇◇


1936年の夏の一日は、うだるような暑さだった。
街の住民たちは、ひと時の涼を求めて川泳ぎに行くのが日課となっていた。

彼らのなかに、その男はいた。

フラニョ・グラサー
彼は当時、BSKベオグラードの守護神として君臨していた。

スロベニア北西、アルプス山脈より注ぎベオグラードで美しく青きドナウへと合流するサヴァ川のほとりは、第一次大戦でオーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国がせめぎあう激戦の舞台となった場所でもあった。

BSKのテクニカルスタッフだったラドミル・ストキッチは、グラサーらチームメイトと水浴びを楽しんでいた。
若い男たちは自らの美しい肉体を太陽の下にさらけ出し、緊張走るフットボールの試合から離れてゆったりとした時を過ごした。

温まった場での思い付きか、それとも以前から計画していたかは今となっては判別する由もないが、若きラトキッチはふいに冗談を言い始めた。相手はグラサーだった。

受けたグラサーは「おいおい、悪ふざけはそのあたりにしておけ」と優しく若者を窘めたわけではなかった。
代わりに彼が示したのは、ストキッチをサヴァ川の水中へと突き落とすことだった。
そこには、何の躊躇もなかったという。

彼は、その17歳の青年が泳げないことをよく知っていた。

哀れなラドミルは助けを求め叫んだが、あっという間に彼は川の中に沈んでいった。
そして、その顔が水面に上がってくることはなかった。

その1時間後、地元の売店でランチを購入するグラサーの姿が目撃された。
彼はその翌日、BSKとヴォイヴォディナの親善試合を観戦するため、ノヴィ・サドへ小旅行に出かけた。その場にいた関係者によると、何事もなかったかのような顔をしていたという。

その態度は警察の調査が始まった翌日にも変わることはなかった。
疑惑の目が向けられてもなお、彼の表情にはわずかな感情の入り込む余地もなかった。
そして、次のように答えた。

「彼がなくなったのは悲しいことだが、私は無実です」


◇◇◇


しかし、数日後に報道記者とBSKのファンが詰めかけた裁判所での尋問に際すると、彼の様子は一変した。彼の証言は途端に支離滅裂なものとなり、観衆を混乱に陥れた。

一人のチームメイトが当初の証言を変更し、グラサーがストキッチを川の中へ突き落したと白状した。グラサーは、これ以上罪を逃れるのが不可能になったことを悟った。

「フラニョはストキッチを押した際、『心配するな、すぐに浮き上がってくるさ』と話しました」というその証人の発言により、事件は一気に解決を見た。

グラサーは最終的に自らの罪状を認めた。
2年半の収監を命じられた際の、冷たくわずかにほほ笑んだ写真が残されている。

「被告人がスポーツマンらしく、英国人紳士のような態度で罪を認めていれば、執行猶予が認められたかもしれない」と裁判を取材した新聞記者は紙面に書き付けた。


◇◇◇


満場一致の判決を経たにもかかわらず、グラサーの収監期間はわずかなものだった。
彼が何を行ったのかは闇の中だが、今はそんな話をしても仕方がない。
唯一残った事実は、彼がすぐに刑務所から出て、フットボーラーとしてのキャリアを続けたということだ。

BSKを追われた彼の新天地はザグレブに拠を構えたHAŠKグランスクで、そこでの滞在は第二次大戦が始まるまで続いた。
他のチームメイトと同じように、大戦中の1941年から44年の間、グラサーはクロアチア独立国代表として11度のキャップを飾った。
しかし、その代表チームはナチス・ドイツ軍によってかき集められた、国家の体を取っていた傀儡チームだった。

グラサーのゴールを守る天性の才は、ナチ式の敬礼やアンテ・パヴェリッチ国家元首への崇拝と同様、彼を代表チームに組み入れるに相応しいものだったと言える。

その親ナチの姿勢が、戦後、国を解放したチトー元帥とパルチザンによって厳しく処罰されただろうと考える者がいるとすれば、グラサーという男を大きく見誤っていると言わざるを得ない。

彼が大戦中に行ったすべての誤りは、都合の良いことに赦免された。
そして、彼は新たに統治者となったユーゴスラヴィア軍が創設したFKパルチザン・ベオグラードの選手兼任監督に任ぜられた。

天運の下に生まれついたか、それとも彼が稀代のペテン師であるかは定かではない。
二度の重大な局面を生き残った。それだけが重要なことだ。

グラサーは戦後、自分がかつて犯した血生臭い殺人の罪などまるでなかったかのように、そして忌まわしきナチス信者などではなかったかのように、国家が祭り上げたスポーツヒーローとしてベオグラードの街路を闊歩した。


◇◇◇


人間としてのグラサーではなく、選手としての彼に目を向けよう。
その素晴らしい才能は、ピッチの上で存分に発揮された。

驚異的なことに、彼は1933年から49年の16年間で1,225試合出場を果たした。
そして何より、ペナルティキックストッパーとして輝かしい記録を残している。

彼がキャリアの中で相対したPKキッカーの数は94.そのうち、わずか21ゴールのみを許している。これはユーゴスラヴィアのフットボール史の中で、他に並ぶ者のない大記録となった。

ハントケが描いた主人公同様、彼もまたペナルティキックを受ける際に不安を抱いていたのだろうか?そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

殺人逃れをしようとした際、殺人の罪をわずかな懲役で免れた際、そして親ナチから共産党へ鞍替えした際、そのペナルティを守る嗅覚がグラサー自身を死地から救ったのかもしれない。

トラブルと疑惑に彩られた輝かしくスリリングなフットボールキャリアを携え、グラサーは2003年にザグレブの街で静かに息を引き取った。

享年90歳。大往生だった。


◇◇◇


アルベール・カミュの代表作「異邦人」。
作中、アルジェリア人の主人公ムルソーは母の死にも全く感情を表さなかった。

そして、ふとしたことでアラブ人を殺害してしまった後に裁判にかけられ、その殺人動機についてかの有名なセリフを放つ。

「太陽が眩しかったから」

この世界を震撼させた不条理劇がカミュの手によって仕上げられたのは1942年、つまりグラサーの事件が起きた6年後のことだった。

そういえば、カミュもまたアルジェリアのプロチーム、ラシンFCでゴールを守るという経歴を持つ、才能あるフットボーラーだった。

カミュ、ハントケ、そしてグラサー──

ここに奇妙な符号を感じるのは、私の過度なロマン主義だろうか。

(校了)

コメント